COLUMN

タイムマシン

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遠い日のいつの日か、棺の中に写真を一枚だけ持って行けるとしたら・・・
どの一枚を選ぶだろうか?


私には、いつも持ち歩く一枚の写真がある。
ずっと前に荷物を整理している時に見つけたセピア色した一枚だ。
三十年以上も前でだいぶ古ぼけている。
アルバムを開く度に見慣れていたはずの写真だった。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。
その一枚の写真に秘められた深い想いに気づいた瞬間、思わず・・・。
場所は展望台。東京タワー。
写真の中心には若かりし頃の父がいて、ぷくぷくした赤ん坊の弟を抱いて立っている。
その手前で、走り回れるようになったばかりの幼い私が、カメラに向かって満面の笑みで走り出している。
偶然かもしれないが走り出す一瞬を捕らえている写真だ。
「そうだ!」そこには確かに母がいる。
みんなの視線の向こう側で、写真には写っていないカメラを構えた若き日の母が。
小さな私は父の前でじっとしていられず母に向かって満面の笑みで力いっぱい走り出しているのだ。
聞こえるはずも無いのにクシャクシャの笑顔の口元が「おかあしゃ~ん!」と型どって見える。
気付いた瞬間、涙が溢れた。
独り立ちするまで厳しかった両親の、厳しさの裏側にある想いを幼き日の私の行動が教えてくれる一枚だった。
三十年余りの時を越えて。
アルバムという「タイムマシン」に乗って。
そして同時に、写真嫌いな私が言うのもおかしいけれど、ビデオじゃなく写真の持つチカラに嬉しくなった。
もちろん動く映像にも良いところはたくさん有るけれど、人の持つ想像力や創造性を弱め、脳を退化させてしまうのではないかとだいぶ前から不安に思っていた。
写真には見る人によって無限に広がる可能性がある。
それを決定づける一枚でもあった。
恥ずかしながら、きっと両親もこの記事を読むだろう。
今度会う時は照れ臭いから何か手土産でも買って帰ろう。
体型を気にする両親へ感謝といたずら心を込めて甘い物にしよう。
そうだおうちに帰ろう。
久しぶりに。
あの「タイムマシン」の詰まったおうちへ。
そして、また、あの頃のように笑ってみよう。

赤嶺しげたか 2009・2・3 沖縄タイムス「唐獅子」掲載



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